の寺小屋の場面で、よだれくりが、我が子小太郎をそれとなく寺小屋に預けて、我が子に後髪を引かれつつ立ち去ってゆく松王丸の妻お千代の一部始終の所作をまねて観客を笑わせるが、これも“もどき”であろう。
折口がこの“もどき”について最も注目したのが、白い面の翁の所為と同じことを繰り返す黒い面の三番叟であり、地固め(長刀舞)、剣舞、高足などもどきの諸演目が演ぜられる西浦の田楽である。これら“もどき”の演技振りを折口流にその特徴を述べると、模倣する、解りやすく説明するである。本体よりも早間で簡略化して演じられ、さらに全体としてはどこか、おこついていて、批判的、反抗的、逆に出るなどし、そういったことが極端化して、荒れまわる、とか、みだれがましい挙動となるものである。この“もどき”の具体例として黒神楽のヒョットコなどを挙げ、さらに、これを能の世界でみると、狂言方、ワキ方がこれに相当し、おこつく動作、言い立て語りを主たる演技内容としているとも述べた。その滑稽な側面を“おかし”と形容するが、折口によれば、この“おかし”は、他人に対して極めて挑戦的な「犯し」という意味である由。このような性格のもどきは、悪さをする訪れ神に重さなるイメージである。
ところで、このような性格の“もどき”の働き、それと関連する副演出性こそが芸能の発生、展開を促してきたものと解釈する折口である。実際能のプログラム構成がそれを如実に物語っているとする(注?)。能の一方で、おかし・言い立て語りを主眼とする狂言があって、両者は交互に演ぜられる。一方、能に限ってみても、最初に翁が演じられ、その翁の演目の中でも白色の翁の登場の後、黒色の翁・三番叟が翁と同趣旨のことを演じ、それらに引き続いて、高砂などの脇能物のプログラムとなる(これらも翁同様の祝言の曲である)。さらに能一番の中においても、前場と後場との間に間が登場し、前場のストーリーを簡略に説明するが、これまた、一種のもどき、副演出であるとみる。
かうして副演出を重ねて行ったのは、単に猿楽ばかりではない。日本の藝術はかくして、豊かに発達して行った。(注?)
この一文の中の芸術という話は芸能と置き換えてもよいのだと思う。おこつき、乱れがましさ、荒れまわり、犯しといった性格のもどきが先述のように、荒平、翁、花祭の鬼などの託宣型の神楽事の来訪霊と同じものだということになると、悪霊強制型の神事こそが神楽能、ひいては芸能の発展に関わっていたとした岩田氏の考えは、折口の考え方と大きく異なったところへゆきついたものとみなされざるをえない。
最後に折口説に対する私の受けとめ方を付記しておこう。話は神の事ではないが、それに類した歌鼻使役者の逸話を印象深く記憶している。それは初代市川団十郎の話で、彼がとある大名の家に呼ばれた時、酒の冥に荒事とやらを見せてくれと所望された。そこで同人は景清の話に合わせて、立ち上がり障子襖を蹴破って見せ、これこそが荒事なりと述べたという。周囲の者たちがどうなることかと大いに気をもんだが、この大名大変機嫌が良かったそうで団十郎に拝領物をしたという(注?)。これくらい真に迫った暴れぶりをなさなければ荒事とはいえないというか、初代団十郎こそ役者の鏡なりと讃えた一節である。この話、大名が如何にも鷹揚だったということを示しているのではなくて、つまり相手を怒らせる寸前までの乱暴ぶりを見せることが観客の意向にかなっていたということである。
それが荒事の隆盛を支えたものであろう。今でも初春興行には暫だとか、曽我物だとかの荒事の演目を並べなければ観客の気がすまない、そういう民俗、人々の心情が作用しているからだとこのことは説明されることが多かった。しかしここのところは単に民俗学の話に限られるものではないだろう。例えば世の中の変遷において、いつも若者が先頭に立って旧習にたてつき、好き放火をし散らかす。年寄り、保守的な人たちはそれを大いにたしなめたりするものの、いつの間にか時代は別のものへとあらたまってゆく。他方そういう若者もいつしか年を取って、何であんなばかなことをしていたのかと自らの若気の至りを反省する。しかしもうその頃には、また次の若い世代が登場してバカをしでかす。こういったことはひとり、政治や思想の世界ばかりではなく、当然のことながら芸能や芸術の世界でも繰り返されているのだと思う。
※当稿は去る十一月四日、長野県の飯田市美術博物館で行われた講演の原稿を掲載したものである。
<文化庁主任文化財調査官>
*注は67頁参照
前ページ 目次へ 次ページ
|
|